農林水産省のホームページを見ると、日本は綿の自給率がほぼ0%だそうです。
8世紀に崑崙(コンロン=今のマレー、インドシナ半島)の青年によって日本に伝えられた棉の種。その時にはうまく栽培できずにいつの間にか消えてしまいました。
その後、15世紀に再び中国や朝鮮から再び棉の種が入ってきて戦国時代に栽培に成功。江戸時代には広く日本各地で栽培されるようになりました。それ以前は麻や草木の繊維などを利用した硬く、保温性の乏しい布しかなかったため、保温性があって暖かく、柔らかくて加工がしやすい綿の布は庶民にとって生活になくてはならないものとなりました。
明治以降、外国産の安い綿が大量に輸入されるようになり、日本の綿の栽培は急激に廃れました。木綿の着物や綿製品の産地でさえも、ほとんどの所で棉を栽培することを辞めてしまったのです。
一般に和棉と言われる日本の綿は、繊維が短く、糸にしにくいという特徴があります。よく、布団綿として用いられます。繊維が長い外国産の綿のほうが加工しやすかったということもあって、綿製品には外国産の綿が広く使われるようになりました。
元々は外国からもたらされた木綿ではありますが、そもそもの種類の違いに加えて、長い間日本で栽培されるうちに雨の多い日本の気候に順応して、下向きに実をつけるようになったといわれます。和棉と呼ばれて西洋棉と区別され、今でも【和棉を栽培したい】という人たちによって各地で栽培されています。それぞれ小規模なので、自給率としては0%にカウントされてしまうのでしょうか。国内での消費量に比べて、圧倒的に少ない量しか生産されていないということのようです。
私の母は、ある時【日本の綿で織物をしたい】と思い立ちました。30年くらい前のことだったと思います。
その時には、お店で簡単に購入できるものではなくて、結局、種を手に入れて、自分で育てた和棉で織物をするというところに落ち着きました。
静岡県で開催された棉畑実地研修会や、わたわたサミット等に参加して、棉について学んでいました。そのうちに、いろいろなご縁がつながって、一時茨城県で棉づくりをするグループに加わって棉畑の作業や綿や織物に関する活動をしていました。
今は、引っ越して茨城を離れたこともあり、年齢的なこともあり、母は畑仕事は引退して、収穫した綿を大切に使いながら織物をしています。
それでも、一昨年はお友達の畑の一角で棉の栽培をしていましたし、棉を収穫してから糸にするまでの道具がそろっているので、糸紡ぎのワークショップなども時々行っています。木の道具を使って棉の実から種を取り、ホワホワの綿から糸を紡ぐ作業は、実際に目の前で見ると原理がよくわかって面白いものです。糸や布って、植物からできるんだということが実感できます。知識としてわかっていても、体験したことがある方は少ないらしく、子どもだけでなく、大人でも興味を持ってくださる方が多いです。おかげさまで私や私の娘も糸紡ぎを通じて世界が広がっていると感じています。
衣類や布団を作ることが、暮らしに欠かせないものとして「やらねばならない」家事だとしたら、本当に大変なことです。今はそのような辛さは感じなくてよいのが幸せです。それでも、遠い存在になってしまった「もの」を作る場を、ときどきこのように引き寄せるというのは大事なことだと思うのです。糸や布に限った話ではありませんが、作る過程が分かっていると、材料にどのようなものが使われているのか、作業がどれだけ大変なのかに思いをはせることができます。最近よく話題になるSDGsを語るまでもなく、ものを大切にすることや豊かな気持ちで暮らせることにつながっていくと感じています。
今年は、ご縁のあった農家の方に和棉の種をお分けしました。以前から和棉を栽培したいと伺っており、今年、畑にまいてくださるとのこと。上手く育って、私どもにも分けていただけるようであれば、追々地元産の綿でマフラーが織れるようになるかもしれません。【食】だけでな【衣】も地産地消。着るもの全部というわけにはいきませんが、素敵な予感がします。
和棉の手紡ぎの糸は柔らかく、お店で購入する糸よりも色が濃く染まります。一般に木綿はウールや絹に比べると染まりにくい素材なのですが、手作業で紡ぐため繊維の間に空気が適度に入り、色の吸収が良いようです。
【日本の綿で作りたい】というのが、母のこだわりの行き着いたところで、私も共感するところです。大量に作って低価格で販売するというのは無理ですが、同じようなこだわりを楽しんでいらっしゃる方のもとに届けられたら幸せだと思っています。